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鬼の研究所

2009.04.02

鬼の話

馬頭の大山田というところに「ロサ・ムンディ」というカフェがあります。
去年に続いて今年も花の風まつりに参加するそうです。
↓は去年の画像です。

このロサ・ムンディには鬼の研究所という集まりがあります。
一応この会に参加してるんですが、ここから発行している冊子に書評を書けといわれました。
2ヶ月ぐらい前の話しです。忙しくて手を付けられずにいたら締め切りから2週間ぐらい過ぎてしまいました><;
一昨日あわてて書き殴って提出してきました。
目をつぶってめちゃくちゃ殴り書きしたので文章はひどいもんですが、とりあえず何ヶ所か言葉遣いを直してこっちに転載します。

書評『酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化』
                             高橋昌明(中央公論) 2005年

那須烏山市の山あげ祭りは、名産の烏山和紙を使った10メートルを越える巨大な山を模したホリゾントと細密な工夫を凝らした伝統的な舞台装置で知られるが、この祭りの起こりは永禄三年(1560)に遡るという。
永禄三年といえば、織田信長が今川義元の二万五千の大軍を打ち破って急速に勢力を拡大する切っ掛けになった桶狭間の合戦のあった年で、戦国時代のただ中ということになる。

下野の国もまた領地を争って武将達は戦乱に明け暮れ、戦に斃れるものも多く、飢饉や疫病も絶えなかったと伝えられる。
そんな中で烏山城主の那須資胤が五穀豊穣、疫病退散を祈願して牛頭天王を勧請したのが山あげ祭りの始まりである。

牛頭天王は素戔嗚尊と習合して京都の八坂神社に祀られ、やがて全国に広まった除疫神だから、山あげ祭りは本来、疫病退散を主たる目的としていたと考えられる。

ファイル 11-1.jpg

さて、以前当誌に角を生やして毛皮をまとう鬼の姿と穏(おぬ)から鬼への言葉の転化を少し書いた。
高橋昌明著『酒呑童子の誕生─もうひとつの日本文化』は、形姿が定まらぬモノノケがどのようにして現代に伝わる鬼の容姿を獲得していったかを詳細に追った本である。
酒呑童子を描いた「大江山絵詞」と「酒呑童子絵巻」を考察の机上に広げ、平安の京を起点にした地勢的検証から朝鮮半島、中国の伝説まで、様々な資料を用いて説話形成の過程を読み解いていく。

この遠大な検証作業に読者として着いていくのは、軽い好奇心で鬼の伝説を読みかじった程度の知識では至難だが、幸いなことに著者は冒頭で「本論でさまざまな角度から展開するように、童子は都に疫病をはやらすケガレた疫鬼で、これがすべての出発点である。」とひとつの結論を述べている。
これを頼りに鬼のテーマパークにでも出かけるように頁をめくれば、中国の斉天大聖が出て来ようが竜宮城に迷い込もうが驚きと好奇心のうちに酒呑童子の姿が頭の中で像を結んでくる。

鬼の棲処と言われる大江山は、かつては京都老の坂の大枝山を指したという。
京の都の西の出口にあたるが、古くはこの地で疫病が都に入り込むのを防ぐ「四角四境祭」という祭祀が行われた。
「ここで行われる一連の呪的行為は、モノノケを見えない霊的存在から、形象化され実体感のある鬼へと転化させる契機になる。」
この着想をもとに、著者は酒呑童子説話が成立するプロセスを読み解いていくわけだが、もっとも興味深いのは、目に見えぬ厄災の正体を”鬼”として眼前に出現させなければ収まらない人間の心情が、鬼を語る説話の底流に透けて見えてくることである。

そしてひとたび像を結んだ疫鬼は、謀反する者として源頼光ら都のヒーローたちに滅ぼされ、怨霊神として祀られる。
山あげ祭りでも上演される下野の国ゆかりの平将門を「外都の鬼王と指称するのも、こうした感覚にねざすのであろう。」と著者は書く。

時代を問わず鬼の話しが好きな日本人は多い。
どこに視点を置くかで見えるものが違ってくる事を、「もうひとつの日本文化」というサブタイトルが示唆しているように思う。

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